文学とか社会学とか


文学は常に切羽詰っています。

と書き始めるとなにやら読んでるひとが印象深く受け止めてくれるつうか興味持ってくれるつうかキャッチーだなんてことを昔どこかで読んだことあるような気がするのでこんな冒頭にしてみたわけですがちなみにSimpleさんをいつも読んでるつうのもバレますかこれは。ちなみに文学がジャンルとして行き詰っているとかいうことを語りたいわけではありません。

文学ってなんじゃらほい、と考えていたのはもちろん例の論争(一昨日のエントリ)(昨日のエントリ)に関係して、郡編集長がトークショーで言ってた言葉と伝えられる「それは社会学だ」からなんですけど。それを読んで思ったのは、だいたい郡さんぐらいの歳の文学者のひとが“社会学”って言葉を揶揄として使うときってのはだいたい意味が決まっていて、それは「当事者意識の欠如」を揶揄してるんですよ。俺の印象では。

つまり、社会学っていう学問は人文学の中でも特に、観察対象から距離を置くことが大切というか、観察対象が人間そのものであるにも拘らずその人間に対して関わることをできるだけ避けることが望ましいと考えられていたのですね。それはその通りで、だって下手に関わったら観察結果に影響が出てしまうわけで、当たり前つうか仕方のないことですよね。でも、実際の調査では個人に触れないといけない。でも観察対象の相手を人間として扱うことは学問的誠実さから言うと難しい。そういうわけでいきおい、社会学は人間を「ひとりの人間」として扱わない、みたいな非難をされることが多かったのです。ほんとはそんなことないんですけどね。人文学のひとはひとりの人間をひとりの人間として扱うことが大事、みたいなとこがあると思います。それで特に文学にかぶれたひとたちは、社会学を目の敵にするような状況があったと思います。なぜならば、文学かぶれのひとは、文学は個人のことだ!ひとひとりのことだ!ひとりの人間が自らを深く明らかにし、それに触れることで他者は自らの存在を自ら深めるのだ!ひいては文学は人間存在そのものを拓くのだ!魂の交響!みたいなことを考えていたからなんですね。「社会学は人間を十把一絡げ」みたいなことを平気で言ってたのです。文学者って結構嫌味ったらしいひとが多いんですよね。ほんとほんと。

で、「当事者意識の欠如を揶揄」するとはどういうことかというと、てめえは自分は高みから見てるばっかじゃねえか!お前がほんとうに叫びたいことは何だ!みたいなことで、たぶんサルトルとか実存主義とかアンガージュマンとか学生闘争とかそこらへんの話だと思うのですけれども。何と言うか、根本的な立場が違いすぎるというか、社会学という学問はそもそも「あのひとたち(自分も含む)はこういうふうにやってます」というものであるのに対し、文学を成そうというひとは「俺はこうだ!こうなんだ!」と書き付けるひとなんですよ。まるで立場が違うんですよね。社会学のひとは常に冷静に対象を観察するのに対し、文学者のひとは常に何かに切羽詰まっていてそれを書き出している。

まあなんというか、たぶん文学のひとは観察されるのが嫌なんだと思いますよ。よくフィールドワークなんかである、「先生がたは我らを観察するばっかで自分のことばっかで我らのことは考えてくれないからこっちも協力するつもりはない」みたいな物言いというか。文学のひとは常に当事者意識ばりばりで、常に観察される側に共感してるんですよ。だって深く共感することこそが自らを拓くことだと信じていますから。まあ俺に言わせれば、もっと観察する側にも共感してみればいいのに、と思うのですが、そうはならないらしい。ヒューマニズムなのかな。

そういうわけで、「それは社会学だ!」という言い回しは実際の社会学をバカにしているわけではないのです。とってもセンスの古い揶揄だなあって感じです。でも、そう言いたくなる気持ちは分かります。共感します。俺も文学側の人間だからです。でもそこで話を潰すほど揶揄することはないと思います。だってトークショーの主役はお客さんなんだし、そしてその場の出演者とはその揶揄ではコミュニケ取れないっすよ。古すぎて。編集長がいちばん場を読めてない本を作っちゃったんなら、トークショーでも後ろに下がっとくべきでしたでしょう。それが責任だと思いましたよ。

なんで俺がこんな文章書いたのかって、やっぱ切羽詰ってるからですよ。今これを喋りたい!って切羽詰っちゃってるのです。空気読めてないかもですけど。


補遺(5/6 4:25):「文学者」という言葉はここでは「文学を専門に研究する学者」ではなくて「文学に関わるひとのうち文学に過剰に思い入れのあるひと」の意味で使っています。

補遺2(5/6 4:45):俺自身は、社会学を嫌いだとかバカバカしいと思うことはありません。ただ、社会学とかは関係なく、話の状況に依っては「なんであなたがたは当事者であるにも拘らずそんなに他人事みたいな話をするのか。もっとあなた自身の言葉を聞きたいのに。」とツッコミたくなることはあります。