たとえばひとりでもさみしがらずにたつために

「ひこうき」/フィッシュマンズ

いまもうかぶ あのそらも ふたりして みていた
ひこうきぼんやり とんでって ふたりして みあげていたのね


きみのはなしも あのそらに とんでって きえた
ひこうきぼんやり えをかいて あおいそら よごしていたのね


ふたりのものがたりは いつでもあのひのまま
いくつものときがたっても
きえないひこうきぐもも あのひのままだよ
こんどもここでずっと あえる


いまもうかぶ あのそらも きえないで まってる
ひこうきこっそり おってきて ふたりして みあげていたのね


ふたりのものがたりは いつでもあのひのまま
いくつものときがたっても
きえないひこうきぐもも あのひのままだよ
こんどもここでずっと あえる


びるのむこうに とんでった


ふたりのものがたりは いつでもあのひのまま
きえないひこうきぐもも あのひのままだよ
ふたりのものがたりは いつでもあのひのまま
きえないひこうきぐももさ あのひのままで

立つために、断つために、発つために、経つために、どのときにしてもフィッシュマンズの音楽はやわらかくぼくにそれを促してくれる。ひとりでたつんだよ、そして、誰かを恋う気持ちは素晴らしい、思い出は、幻は。全ての感情で夢みたいに毎日は過ぎてゆく。そうやってうたを聴いて過ごしているうちに、ぼくはフィッシュマンズのうたの中の「ぼくら」に取り込まれてゆくんだけれど、フィッシュマンズの叫ぶ「ぼくら」はいつだって「ぼく」と「きみ」の二人のことだ。「ぼく」が「きみ」を見つめたときに、残りの全ての景色は幸せみたいな夢の風景に変わってしまう、そんな景色を、幻を描く筆で描き留めてしまったのがフィッシュマンズのうたなんだと思う。そこには驚くほど満たされたひとりの姿が見える。セカイはこんなにもあたたかくて、セカイとぼくとの境界線の外側にはなみなみとセカイが満ちている。ぼくはこんなにひとりで満ちていていいのかな、でも、セカイはすぐに破れて零れてしまうのだから、フィッシュマンズのうたを聴いているほんのこのときだけ、ぼくはぼくに満ちて、過ごす。