オープンソースのコンテンツ化


(5/10追記:http://d.hatena.ne.jp/solowr/20050510/p1に続きを書きましたのでご参照下さい)

前日付けの論争に出てきてた言葉なのですが。

コンテンツというのは中身のことであり、利用者がそれを求めてやってくるものです。つまり、「オープンソースのコンテンツ化」という言葉は、オープンソースという仕組みによってもたらされるコミュニケーションの様式や状況そのものが利用者の求めるコンテンツとなるということだと思います。

インターネットのコンテンツといえば今までは中身のある(価値のある、有用な)文章のことでした。そしてそもそもインターネットとは、その文章同士をハイパーリンクすることによる知の連関と集積を目指していたのでありました。「コンテンツのオープンソース化」によって、それまで各人がばらばらに書いていたコンテンツとしての文章が集約されより中身の濃い(より価値の高い、より有用な)文章になり、それがインターネットのコンテンツの充実に繋がると考えられてきました。しかし、オープンソース的な知の集約が行われる一方で、その集約作業に参加するひとたちは作業を通じたコミュニケーションの面白さというものにも気づきます。気づいたからには、それを求めるひとも現れるし、むしろそこに高い価値を見出し、それを主目的とすることもできるわけです。そのとき、従来のコンテンツの価値は完全に転倒しています。作られたものよりも、むしろ作ることを通して為されたコミュニケーションの方が利用者の求める中身である、という状態を指して「オープンソースのコンテンツ化」と言うのだろうと思います。

この状態は、「友達を作るためにサークルに入る」みたいなのと似ています。サークルの方針としてはしなければならないことがある(サッカーサークルであればサッカー)のだけれど、実際にはそれをするためというよりは友達を作りたくて入りました、というときに、彼にとってのコンテンツはサッカーではなくサッカーを通しての友達作りです。そして、サークルはサッカーを媒介としての友達作りの場として大変魅力的である、ということが、「オープンソースのコンテンツ化」ということなのだろうと思います。

それが集金につながるかとかのお金の話はよくわからないのであんまりしないどきます。ただ、mixiプレミアムに金を払う価値を見出すひとが多くいる現状を考えるに、「状況への参加費」つうかまあ「部費」みたいな感じでの集金には違和を感じずに応じるひとが多いのではないでしょうか。

ってつまり出会い系に金払うみたいなの?と訊かれたら、そうだなあ……。

以下追記(5/5 0:00)

この文章は「オープンソースのコンテンツ化」ってどういう意味だろう……というところから考えが始まっているので、ちょっとこじつけめいてる感じになってるかも、と反省しております。オープンソースという言葉を「ひとつのものを作り上げる上でその作業過程を公開して共同作業への参加・助力・チェックを広く求めること」のような感じで使っています。コンテンツがオープンソース化することで、オープンソースという状況の面白さが発見され(なぜなら作業状況も公開であるので)、その状況の面白さをコンテンツとすることができる、ということで、「コンテンツのオープンソース化」と「オープンソースのコンテンツ化」ではコンテンツの持つ魅力の質が違う、というのが上手く伝わっていないのかもです。その違いを具体的なレベルで説明するならば、「オープンソースのコンテンツ化」に於ける“コンテンツ”とは、オープンソースによって成されたもののことではなくて、オープンソースによって公開される作業の記録なのだ、と考えます。俺文章下手だなあ……。

もう一個追記(5/6 6:40)

躁鬱断層さんのこちらのエントリで指摘されているのを読んで、なるほどそうだなあと思いました。いちおう俺としては、「ソース=文章そのもの」「コンテンツ=文章の面白さ」みたいな感じで使ってたんですけど、確かにプログラマの方から見たら気持ち悪いですよねこういうのは。もっと自分の具体的なイメージに即したわかりやすい言い方はないものか考えてみようと思います。できればタテ文字で。