皆で石もて投げるバッシングの自明性を疑いつつ


コラム: なぜエロゲーオタクは嫌われるか(リンク外しました)


「キモい」と「忌避したい」は同じ意味なのかなあ、とぼんやり思った。

彼がその対象を嫌って避けるのは(彼の、または彼が大勢と信じている)倫理的観念からである、というところだろうか。倫理を全く失くした合理的な社会に生まれる感情を俺は想像することができない。感情の大部分は倫理から生まれると思っているからだ。なので、「キモい」と感じる仕組みそのものを社会から消し去ることはできず、常に議論は「なぜそれがキモいのか」に対するリアクションの形を取る。「いやそれはキモくない」という意見は「それがキモい」と同様に倫理的であり感情的である。「キモい」という感情に拘った瞬間に思考停止状態に陥ってしまうのだ。それは対象を忌避したい、遠ざけたい、関わりたくない、というその感情自体をどうにかしようとする議論であり、結局それはお互いの倫理を開陳するだけで議論にならずに終わる。感情から始まった議論は、次の瞬間には既に感情を対象化し倫理の範囲を限定しなければ、議論の内容を展開させていくことができない。対象を「キモい」という感情で忌避している限り、対象の「キモい」以外の部分を理解することができない。しかしそれは倫理的に肯定されている、らしい。どうやら。

命題による承認を経て感情化する、ということを考える。たとえば「生理的に受け付けない」という感情を持つとき、彼は実は本当に生まれ持った判断基準で対象を嫌っているわけではない。何かを「キモい」と感じる直感があり、「人間は、特定の対象を生理的に受け付けない(ことがある)」という命題を知っていることによってその直感が承認され、明確に他者にアピールするような具現化した感情となる。感情を承認してくれる命題を広く共有させることによって、ブームも起こるし、いじめも起こる。感情を基にして起こる同調行動は概してそのようなものだ。たまには自分の感情を疑ってみた方が良いと思う。その感情の基になっている命題をもし知らなかったとしたら、そのとき自分は同じようにその感情を持てているだろうか。同じようにその感情を他者にアピールできているだろうか。自明性を疑うとはそういうことだと思う。他者を排斥するような自明性なんてできれば無いほうが良いと思うのだ。という俺の倫理。まあみんなで同調するのも楽しいんだけどね。それも倫理。